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家の歴史 1 梅棹サロン

梅棹家がこの家に暮らしはじめたのは昭和24年(1949)12月です。
主の梅棹忠夫は、酒場に行くよりも、自宅に人を寄せて酒を酌み交わすのを愛しました。また多くの後輩たちに慕われたようです。やがて1950年代のなかば過ぎから、梅棹邸には学生を中心に、学者、ジャーナリスト、作家といった多彩な人びとが集うようになり、いつしか、この家での集いは「梅棹サロン」と呼ばれるようになりました。
当時の学生たちからは、功を遂げ、名を成す人びとが続出し、なかには梅棹忠夫と同じような学問の道を歩む人も現われていきました。国立民族学博物館の3代目館長を務めた石毛直道さんは、そのひとりでした。往時の梅棹サロンの様子を回顧し、こういいます。
「同じような学問を専攻して梅棹先生のご自宅を訪ね続けたからといって、そこでしごかれたとか、鍛えられたという記憶はまったくないんです。いろんな人が集まって談論風発となるのが、ただただ楽しかった。梅棹先生は探検家でした。先生たちに憧れて、わたしは京都大学では探検部に属しました。未知の領域を切り拓けたとしたら、それは、そこまでのプロセスを楽しめたからできたことでしょう」
昭和40年(1965)、京都大学人類学研究会が生まれました。これは「梅棹サロン」が発展した小集団で、彼らの会合は学生も学者も壁などない談論風発の会合でした。そして、この小集団は、京都大学霊長類研究所の一翼を担う人材のゆりかごになり、梅棹忠夫が国立民族学博物館の創設の先頭に立ったときには、その大事業を進めるひとつの原動力となったのです。
ロンドクレアントのロンドは、近衛ロンドにちなんでいます。この空間で小さな集まりが生まれ、やがて大きな夢が育ち、努力の果てにそれが実現されていく。そんな日がくることを願ってやみません。