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梅棹忠夫について

梅棹忠夫
うめさおただお
1920-2010

大正9年(1920)西陣の商家の長男に生まれる。昭和18年(1943)京都帝国大学理学部卒業。当初、群れをつくる大型ほ乳類の動物生態学研究を志したが、昭和19年(1944)に現在の内蒙古自治区で遊牧民研究をはじめたのを契機に、民族学に軸足を移していった。
昭和24年(1949)大阪市立大学理工学部助教授に着任。北白川伊織町で暮らしはじめる(現在のロンドクレアント)。京都大学人文科学研究所の非常勤講師も務め、数々の共同研究に参加するとともに、昭和30年(1955)には京都大学カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊に参加。帰国後に「文明の生態史観序説」を発表。マルクスの唯物史観に対抗する世界史理論として論壇で注目されるとともに、研究を比較文明論に移していく。また、このころから写真術を学び、戦前戦中のスケッチから映像記録方法を写真に換えていった。
昭和40年(1965)京都大学人文科学研究所に助教授として移籍し、後には教授となる。アフガニスタン以後も、東南アジア諸国、アフリカ、ヨーロッパなどを調査していった。
昭和49年(1974)国立民族学博物館初代館長に就任。在任中、世界各地を旅した。とりわけ国交回復直後から中国を頻繁に訪ねた。昭和61年(1986)ウイルスが視神経に回り、両目の視力を奪われる。それでも館長の任をまっとうし、平成5年(1993)まで19年の長きに渡り務め上げた。
平成6年(1994)文化勲章授章。
平成22年(2010)永眠。
最晩年まで執筆活動を続け、膨大な著作の大半は『梅棹忠夫著作集』22巻別巻1(中央公論社)に収められている。