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家の歴史 2 メイキング・オブ・ロンドクレアント

かつて北白川は都に対して鄙、市中の郊外の田園でした。とりわけ花の栽培地として知られ、花農家の女性たちは花を市中に売り歩き、「白川女」と呼ばれました。そんな地が住宅街になりはじめたのは大正から昭和の初めごろでした。京都大学が近いこともあり、新住民の多くは京都大学の関係者たちで、また学生たちの下宿もできていきました。市中の住宅では京町家が有名ですが、北白川には京町家はなかったようです。新しく建った住宅は京町家の様式をところどころに受け継ぎつつ、当時の流行だった西洋モダニズム建築の様式を取り入れたものが少なくありませんでした。この家は、梅棹家が住みはじめた昭和24年(1949)の時点で築後数十年がたち、相当傷んでいるところもありました。
主の梅棹忠夫は、自身をホモ・ファーベル(工作人)と称したことがありました。事実、自分で大工道具を揃え、家に手を入れていったのです。その様子は学者仲間を驚かせましたが、大工仕事にはいい指南役がいました。西陣の梅棹家本家と付き合いの深かった立花康一さん(1915〜2012)という大工さんです。立花さんは、梅棹忠夫に大工仕事を指南するとともに、請われると自身でも腕を振るいました。彼らの仕事のなかでも、とりわけユニークなのは中庭を囲むように仕上げた回廊です。これは、梅棹忠夫の増殖していった蔵書の収納場所として設けられました。中庭があり、回廊と離れ座敷のある様式に京町家を連想したかもしれませんが、じつは増築の結果の姿です。ちなみに茶室に仕立て直した離れ座敷は、子ども部屋として増築したものでした。
今回のリフォームにあたって、回廊はほぼ往時のまま残すことにしました。建物の施工は、立花さんのご子息で立花工務店の跡を継いだ正則さんが請け負ってくださいました。そして、類が友を呼んだのかホモ・ファーベルたちが集まり、少しずつ工事を手伝っていったのです。設計と施工管理は、安田溪さんが中心になって進めました。彼は京都大学大学院に在学中です。彼の友人たちほか、多くの人たちが駆けつけ、土を掘り、木を削り、庭を整え、壁を塗り、床を拭いていったのです。

参考文献 青山優子著「梅棹忠夫旧住宅と吉村元男の庭」